さてと。

なんとなく言ってしまった川上稔関連の戯言云々。とりあえずやってみようかな、と。
まずは個人的な話から。
自分が初めて都市シリーズそのものに触れたのは99年4月、中学3年のときですね。修学旅行で貰った小遣いが1万円以上余っていたので、ゲームOSAKAを買ったのが始まり。(事前に『池澤春菜のぱちもんOSAKA』聴いてたり、何かの雑誌の付録についてた体験版やったりはしてましたが)
プレイ1度目で大阪中央放送局に惨敗。迷わず近所の本屋に攻略本を買いに走る(当時は簡単に手に入った)。
その後、グレアンか文音でエンディングまで行き、原作小説のほうも読んでみるか、と「奏(騒)楽都市OSAKA」購入。
で、以降は発行順通り。
そーいや数多居る作家の中でいつの間に自分内1位になったのかは不明。巴里くらいまではその中に埋もれてた気がするから、EEで撃沈した辺りか。(ちょうどファンサイトで公開してた都市用語辞典作り出した頃とも被るなあ)。


さて、話変わって川上稔氏の文体についていろいろと。
文章の特徴のひとつに「1センテンスの短さ」があるかと。これが氏の作品の特徴である読み辛さと疾走感、両方に繋がっているのでは。
「静」のシーンでこれをやられると、途切れ途切れで慣れないとどーにもテンポが悪くなる。
逆に「動」のシーンだと、長文での説明よりも短文での状況説明のほうがスピード感に繋がって効果的なのかな、と。
それから「キャラクター視点の3人称」という独自のスタンスを取っていることも問題になっているかと。
これは2ちゃんねるでれーらあ氏が論じていた“読者の視点”(読者の認識と文章上の認識をイコールで結ぶこと)をもたらすために取られている手法と考えていいだろう。
キャラクター視点と読者視点のシンクロが(読者のなかで)上手く行くか失敗するかによって、川上氏の文章における「読み辛さ」「疾走感」の両方が生まれるのではないだろうか。
自分の場合、初読(特に序盤)では読みづらく感じても、読み進めるうち、再読を重ねるうちに文章が走り始めることが大半なので徐々に文章と自分内イメージとがシンクロしていく、と言うこの説が当て嵌まるかと。


てか、れーらあ氏の文章見つけるために過去ログ漁ってたら、ついつい読み始めて時間経つって、大掃除中に懐かしい本とか発見した感じに似てるなあ。

参考;
Lehrerlehrling.:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/8314/
書簡都市−符等:http://city-ahead.hp.infoseek.co.jp/index.shtml
川上稔と都市/AHEADシリーズ・The 16th-G:http://book.2ch.net/test/read.cgi/magazin/1069409479/
都市シリーズアンテナ:http://a.hatena.ne.jp/sumika_09/